和菓子司・萬祝処 庄之助|年寄春日野堂々の優勝|神田

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二十二代庄之助一代記〈第十一回〉
   

泉  林 八

年寄春日野堂々の優勝

 相撲協会では、昭和五年と六年の天覧相撲を記念して、毎年五月の夏場所後、東京の両国国技館で、大日本相撲選士権大会を開催することを決めた。この大会には、現役を引退した年寄も参加できることになり、優勝者には賀陽宮家御紋章入りの賜杯が授与されることになった。

 六年の第一回大会は、六月六日から三日間にわたって行われたが、新しい取組方式と年寄の参加が人気を呼び、当時としては全く珍しく三日間とも満員の盛況だった。

 年寄で一部に出場したのは、大正十四年一月限り引退した元横綱栃木山の春日野、昭和四年九月限り引退した元関脇清瀬川の伊勢ケ浜、五年五月限り引退した元横綱常ノ花の藤島、
 五年十月限り引退した元大関豊国の九重、引退したばかりの元大関常陸岩の境川。

 元横綱西ノ海の浅香山、元関脇両国の武隈、元関脇三杉磯の花籠らは二部に出場した。

 東西の正大関大ノ里と玉錦を左右にしたがえて「全力を尽くして戦います」と宣誓した選士代表の春日野さんは、引退してはや七年に近く、頭はもうツルツルにはげあがっていたのだが…。

 まず初日-。 第一部紅組(十六名)は、春日野が一回戦で沖ッ海を押し出し、二回戦で鏡岩を切り返し、準決勝で若瀬川も切り返し、決勝では当時の第一人者玉錦にもろ差しを許してやや後退したが左右からがっちりかかえて寄り返し、右から豪快に突き落として快勝、トップをきってあっさり優勝。

 同じく白組(十六名)は、九重をすくい投げ、伊勢ケ浜を寄り切り、雷の峰をすくい投げに倒したあと、錦洋を寄り切った信夫山が優勝。

 二日目は、春日野と信夫山を除いて再び紅白に分けてトーナメントが行われ、紅組は、玉碇を上手投げ、鏡岩を寄り切り、藤島を上手ひねりにくだしたあと、大ノ里をはたき込んだ大関能代潟が優勝。

 白組は、新海を腕ひねり、伊勢ノ浜を巻き落とし、幡瀬川を寄り出したあと、和歌島をすくい投げで倒した玉錦が優勝。

 三日目は、春日野、信夫山、能代潟、玉錦を除いて、さらに紅白に分けて行われ、紅組は、山錦を寄り切り、出羽ケ嶽を渡し込み、武蔵山を二丁投げでくだしたあと、雷の峰を寄り切った鏡岩が優勝。

  白組は、若葉山を寄り切り、九重を寄り切り、大ノ里を押し切ったあと、玉碇をつり出した関脇天竜が優勝。

 そして、優勝六力士による選士権者決定戦は、第一次戦で、玉錦が鏡岩を右上手ひねり、天竜が信夫山を左上手投げ、春日野が能代潟を左をのぞかせて返し、右からしぼり上げて型どおりに押し切り、勝者三力士による第二次トモエ戦にはいった。

 まず玉錦と天竜は、がっぷり左四つから玉錦が寄って出て、天竜が腰を落としてつり上げようとするところ、左外掛けにもたれ込むと、天竜はたまらず後退してカカトから踏み切った。

 春日野と玉錦は、左四つになって玉錦が食い下がろうとするところ、春日野は例によって右から強烈におっつけてしぼり出してもろ差しを果たすと、右から巻き、左からすくって快勝。

 春日野と天竜は、左四つで天竜が右上手を引くことに成功したので、これは…と思わせたが、春日野は左下手を取り、右からしぼってもみ合ううち、結局しぼり出してもろ差しになり、じりじりと寄って出て、左の下手投げでたたきつけた。

本当に強かった栃木山

 春日野さんの優勝は、一般ファンにとっては大変な驚きのようだったが、私らにとってはさほどびっくりすることではなかった。
 けいこは、連日、力士が顔負けするほどやっていたし、玉錦も天竜も武蔵山も、兄弟子負けもあるのだろうが、ほとんど勝てなかったからだ。

 春日野さんの選士権獲得は、いま、大鵬親方(満三十九歳になったばかりで、当時の春日野さんより数か月若い)が、北の潮や若乃花を倒して優勝したのと同様の快挙だから、

 当時われわれのまわりで、現在の力士はよほど弱いのではないかという議論が沸騰したのも無理はなかった。

 しかし、私は、玉錦も天竜も、大関として関脇として、決して弱かったとは思えない。むしろ相当に強い力士であって、天竜と武蔵山は、当時出羽海一門の幕内力士十人以上を相手に連日何回も回すほどの地力を持っていた。

 春日野さんがあまりにも強すぎたと考えるほかはない。
 弱くなっで引退したのではなく、頭の毛が薄くなり、マゲが満足に結えず、

 観客から”ハゲ、ハゲ”といわれるのが耳ざわりでやめた(本当の理由は他にもあったというが…)だけに、あと六、七年は王座に君臨できるカを持っていた。

 もし昭和六、七年まで相撲を取っていたら、九回の優勝に、少なくとも五、六回は上のせしていただろうから、のちの双葉山の十二回優勝も、新記録にならなかったに違いない。

 若葉山という関脇は強い関脇で、押す以外にはなんの芸もなく、相手が前へ落ちそうになっても、もろハズで起こして押していく、といった一途の相撲を取ったものだが、栃木山は、この若葉山に押させるだけ押させておいて、攻め返して押し切ってしまう。

 太刀光という突進型の大関がぶちかましても、後退せず、左をのぞかし、右からしぼると、相手は簡単に浮き上がってしまい、土俵際で必死にこらえれば、左右いずれかへねじり倒す、全く強い力士だった。

 右の腰をいれて右からしぼると、にぎりこぶしを返した左腕に、相手力士がのっかってしまう、それほどの迫力があった。

 栃木山関はいつも「土俵際でこらえるのは苦しいが、攻め込んできた相手もそれ以上に苦しい。
 六分四分の対戦で、六分の者が攻めてきた場合、押された者の足が俵にかかれば、四分の者でもこらえられるものだ」といっており、

 栃木山の相撲理論はこれを語ればそれだけでも膨大なものになるが、ここでは手数入りについてだけ書きとめておきたい。

 最近の横綱土俵入りをテレビでみると、私は恥ずかしくて冷や汗が出てくる。いまはもうそこでスイッチを切ることにしている。土俵入り、とくに手数入りはショーではなく、精神をこめて相撲の型を示す儀式であるのに、いまの横綱は本当になっていない。

 とくに大切なのは、下段からせり上がるところで、千貫目の巨岩を右てのひらの上にのせて持ち上げる気持ちでなければならないというのに、

 輪島、若乃花はへっぴり腰、北の潮は右へ傾いていて、三横綱とも右のてのひらが上を向いていない。あれでは軽いものでも持ち上がるまい。

 そこへいくと、栃木山関の下段は、腰がすわり、上体が真っすぐ、右腕の内側が右わきにぴたりとついて、おっつけの型になり、薬指に力をいれ、右てのひらを上に返してせり上がっていく。
 四斗俵(約62キロ)を右手一本で、ヒジも曲げずにひょいと差し上げる怪力だけに、大きな力感だった。

天竜事件で人気急降下

 昭和七年春場析の新番付が発表になった翌日、一月六日の出羽海部屋のけいこは、新大関武蔵山、名人大関大ノ里、大関目前の関脇天竜らのけいこをみようと、多数の見物が詰めかけていたが、この日はこれといった激しい申し合いもなし、なんとなく物足りない感じのけいこだった。

 そして昼ごろになると、十両以上の力士たちが、親ぼくの宴会があるといって、三々五々連れ立って、部屋を出ていった。これがいわゆる〃春秋園事件〃の幕開けだったのである。

 このとき、東京府下荏原郡大井町の料亭春秋園に集まった出羽海一門の三十ニ力士(幕内二十人、十両十一人、幕下大高山)は、十か条の要求書をつくって協会に提出した。協会から回答、そして再要求、再回答があったが、

 結局は決裂、九日には、春秋園の力士団は脱退を声明し、十日に大日本新興力士団を結成することに決めた。

 これに呼応するように、東方力士も、有志が集まって一月二十五日に脱退を声明、二十六日、伊勢神宮参拝ののち、名古屋に本拠をおき、革新力士団を結成した。
 参考のため、七年春場所の番付を次に掲げる。
 東方        西方
大関 玉錦    大関 武蔵山○
大関 能代潟   大関 大ノ里○
関脇 清水川   関脇 天竜○

小結 幡瀬川   小結 綾 桜○
前頭 沖ツ海   前頭 出羽ケ嶽○
2鏡岩△     2信夫山○

3朝潮△     3和歌島○
4高登       4山錦○
5錦洋△     5藤ノ里○

6太郎山△    6大和錦○
7雷ノ峰△    7新海○
8吉野山     8高ノ花○

9若葉山     9錦華山○
10古賀ノ浦   10肥州山○
11宝川△    11大島○

12大潮     12常盤野○
13綾浪△    13常陸島○
14若瀬川    14伊勢ノ浜○

15海光山△   15玉 碇○
16剣岳△    16外ケ浜○

<十両>
前頭 常 昇○  前頭 旭 川
2金 湊△     2羽後響○
3銚子灘○     3太刀若△

4番神山△     4綾昇○
5霞ケ浦○     5楯甲△
6双葉山      6鳴潮△

7潮ノ浜△     7駒錦○
8磐石△      8倭岩○
9大鶴○      9鳴海潟○

10石山○    10大ノ浜
11綾若○    11上官山△

<幕下上位>
前頭 国ノ浜   前頭 出羽ノ花
2鷹城山       2射水川
3瓊ノ浦       2大高山○
   ○ 新興 △革新
 なお、行司では、式守政治郎、式守義(のちの二十四代庄之助)、木村勝次、式守豊之助らが脱退している。

 このあと、天竜一派からはなれて一時はボクシング入りを表明していた武蔵山が一月二十五日に出羽海部屋に復帰、
 二月二日には、出羽海、入間川、高砂取締以下、全役員が責任を負って総辞職し、四日に改選して、藤島、春日野、錦島(元大蛇潟)、立浪(元緑島)が取締となり、出羽海は相談役、入間川と高砂は理事におりた。

 そして二月十三日、協会と新興力士団、革新力士団との最後の話し合いももの別れとなり、春場所は入場料を大幅に値下げして二月二十二日から八日間開催することに決まり、十三日に新番付を出した。
 幕内は四十人中二十八人、十両は二十二人中十九人が脱退したため、幕内は二十人に減らしたのに、国ノ浜、出羽ノ花、鷹城山、射水川、瓊ノ浦らは幕下から幕内へ抜てきするという水増し番付、弱体番付となった。

 好取組不足をおぎなうため、従来の東西制を、系統別総当たり制にかえて初日のフタを開いたが、一か月余の紛騒と、スターの激減により、当然のことながら客の入りは悪く、八日間の総収入は従来の一日分しかなかったという。

 記録によると、八日間の総揚高は二万五千円、総計費三十五、六万円で、大幅の赤字を出した、とある。
    ◇
 春秋園事件、あるいは天竜事件の根本原因については、私らにはわからぬことばかりで、私がここで書くべきではないが、相撲協会監修の「近世日本相撲史」によれば次のように書かれている。

 精鋭多数が相集う部屋は、全員の目指す方向が一致すれば、無類の団結心を生むが、ひとたび目的・目標の持ちように違いができれば人心の離散も早い。

 先代出羽海(元常陸山)時代に入門した古参の力士勢と、当代出羽海(元両国)が継承以降に入門の新進力士群に間には目にみえざる軋轢がいつしか生じており俊秀・英才を擁する出羽海部屋も、内情はおだやかならず、いわば内紛状態にあった。

 その内紛で、当初矢面に立ったのは師匠の出羽海である。自分の直弟子だけを可愛がりすぎる、との他愛ない物言いから端を発した古参力士勢の師匠出羽海への不満は、

 歩方金の配分法や地方巡業中の待遇改善要求、さらには出羽海部屋内にとどまらず、協会の会計、年寄、力士共済など、各制度への言及にまで発展していったのである。

 藤島秀光(元常ノ花、のち出羽海理事長)の「近代力士生活物語」にはこうある。

 またある方面の観測では「天竜は後輩の武蔵山に大関の地位を先に奪われ、その腹いせに今度の間題をひきおこしたのだ」と。

 しかし、私は天竜の幕下時代から手もとで指導していた関係上、彼の人物、性行から推して、さほどまで心の狭い、浅ましい考えを持つ男ではないことは証明できる。

 当時、天竜と武蔵山の出羽海部屋兄弟弟子同士の大関争いは激烈をきわめ、実力もほとんど互角で、
 ともに大関の力は十分だったのであるが、たまたま昭和六年度の成績で武蔵山が天竜をやや上回り、先輩で関脇の天竜を抜いて、武蔵山が小結から一気に大関へ昇進したのである。

 もしこの事件さえなければ、大ノ里が晩年だったことからしても、天竜が一年以内に大関に昇進したことはまず間違いないところだった。

 こんなことを書くのどうかと思うが、この事件のあと出羽海親方が私に「天竜を先に大関にしてやるべきだったなあ…」と述懐された言葉が妙に心に残っている。

 しかし私は、常陸山派と両国派に分かれていたのが事件の発端だったとする説や、天竜が武蔵山に先を越されたのが始まりとするような説は信じられないし、また信じたくもない。

 力士たちが心底大相撲界を思って改革を叫んだのがことの起こりであり、それが少々尚早に過ぎたのではないかと考えるものである。

 

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