和菓子司・萬祝処 庄之助|七、再出発、前編|神田

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呼出し太郎一代記、13
前原太郎

七、再出発、前編

ついに東西合併!

 大阪協会にもその後いく変遷があり、幹部も橋本こと高田川に、小野川と取締りになり、だんだんと落ち目になっていった。

あと一人の取締りが中村松五郎というバクチ打ちの親分で、これはもう相撲興行なんぞはどうでもいい。バクチさえできれば満足で、一日パクチができれば、お抱えのお相撲さんは五日や十日は楽に寝ていられるわけ。

力士連中はもう、大きなテラ箱の前にどっかとすわっていればいいので、結局力士が、バクチ打ちの勢力争いの道具になっていたようなものだった。

お相撲さんの五人や十人は、テラ銭でゆうに養って行けるんだから、力士のほうでも巡業だの何だのとあわてなくなっていた。
 そんな協会の状態だったから、相撲はだんだんに不振、不景気の一途をたどるばかりで、とうてい協会は持ち切れなくなって来た。

東京の出羽ノ海さん(元両国)などもたいへんこれを心配されて、大阪方がそんなことでは、まことに情けない。大体相撲という立派な歴史のある国技が、今のように関東と関西で、お互いに角つき合っているということがはなはだよろしくない。

何とか一本にならなければ、相撲道の発展のためにならないというので、千田川さんなどといろいろ話合っていたということだった。出羽さんは元大阪で国岩といった力士だけに話しは早い。 しかし、そういう話はオイソレとまとまるものでもないとみえて、一、二年早くも過ぎてしまったが、

出羽ノ海さんと大阪方の小野川、朝日山さんなんぞとの間に着々と話が進み、大正十四年の七月ついに東西相撲協会は合併し、一本の『日本大相撲連盟』というものがここに誕生して、関取衆もわれわれも、こぞって東京に行くことになったのである。

当時大阪には呼出しが、私をまぜて全部で十六人おった。東西合同というからには、もちろんわれわれ呼出しといえども、当然全部東京へ乗り込むものとばかり思っていた。ところが、いよいよ乗り込むという時になって、とんでもないことになった。

行司の若い衆が私の所ヘ、
「今すぐ親分の家へ来てもらいたい」と使いに来た。何事かと思って飛んで行くと、親方はまっ青な顔をしている。
「太郎、たいへんなことになったよ」
「何ですか、そんな青い顔して……」

「実はな、いま協会から命令が来たんだ。というのはほかでもねえが、お前たち呼出しが十六人いるが、今度東京と合同がまとまったについて、十人は採用するけれども、六人だけ多いからクビにするというのだ」

「そんな無茶な話があるものか。よし、そんなら私にも考えがありますぜ……」と、私の一存で、ここで大芝居を打ったわけである。時の取締りは高田川さんだったが、私は一存で十五人の呼出しを集め、
「今更になって、そんなバカなことをやられてたまるものか。おれは出発は一日二日遅れるが、みんなはすぐ東京に行っちまえ……」
 私も相当のシンゾウだが、こういって、ともかく十五人の呼出しを、取締りにも誰にも話しもせずに、さっさと東京に発たしてしまった。

取締りに強硬談判

 私は二日ほど遅れて東京へ出た。むろんチョイチョイ用事で東京へもどったが、生まれ故郷の東京へ、再び本拠を構えて「再出発」しようと、気負って上京したのは実に二十数年ぶりで、名だいの旅がらすも、ようやく元の古巣へ舞いもどって来たのである。

そして、国技館の門をはいろうとすると、パッタリ朝日山に声をかけられた。
「オオ、太郎じゃねえか。お前どうしているんだ」
「ああ、親方、ちょうどいい所でお目にかかりました。実はこれこれでわれわれ十六人が生きるか死ぬるかの瀬戸際です。わっしはこれからその談判に行こうかと思うんですよ。ぜひ親方、応援を頼みますよ」

「よし、応援をしてやろう。お前もしっかりやれ」と、励ましてくれる。高田川さんはもう家が借りてあるということで、まずそこへ訪ねて行った。
「こんちワ、親方いますか」
 はいって行ったら、おかみさんが出て来た。
「親方いますか。いま、太郎が来たとそういって下さい」
「おお、太部さんかい。親方はいますよ。まアお上がり……」

 すっと上がって見ると、そこに大阪側の高田川、小野川、岩友さんという役員衆が五、六人、東京側の親方高砂さん初め五、六人集まって、しきりに何か話している。
「親方、どうも遅くなりました。いろいろ用事がありまして……」
「太郎、お前何で取締りのいうことを聞かないんだ」
と、ノッケからたいへん不機嫌なお叱言だ。こっちは何食わん顔で、

「取締りさんのいうことを聞かないって何ですか」
「何をトボケているんだ。お前、呼出しは十人採用するが、六人は要らんといって断わったじゃないか。それだのに、みんな東京へよこしちゃって……。何で取締りのいうことを聞かないんだ」

「おっと親方、ちょっと待って下さいよ。そんな冗談いっちゃ困りますね。そこらの日雇人足じゃあるまいし、いま急に十人だけは残すけれど、六人は出て行けと、どういうわけで断わるんですか?」
「それァ呼出しだけじゃない。相撲取りだって見込みのないものはみな断わって、このさい国へ帰したんだ」

「そうですか。親方衆はお金もあるしするから、相撲取りも得心して帰ったでしょうが、私たちは国へ帰すといったって、理由もないのにビタ一文もやらずにどうして帰せますか。御承知の通り一年三百六十五日のうち、タッタ六十幾日かは巡業にも行きますが、あとはずっと遊んでいるようなもの、呼出しなんというやつに、一銭の貯えもありゃしませんぜ。親方にえらい口答えをして悪いけれども、こうなると私もいわなくちゃならねえ。あなた方はお金があるから相撲取りの始末もできるでしょう。私は親分のあと代わりをやっていますが、私には金は一文だってありゃしません。一銭の金も渡さずに、お前とお前は要らないから国へ帰れなんてどうしていえますか」

「帰る旅費でもやるとか、一か月やニか月食うぐらいの金を出してやらなくちゃ、そんなことはいえませんよ。呼出しなんてやつは、みんな相撲が好きではいって来て、一年でも二年でも辛棒した者ばかりですぜ。

あなた方が弟子が可愛いいのも、私が下のやつを可愛がるのも同じこってすよ。クビにするなら私を協会に呼んで、これとこれをクビにする。クビにした者は国へ帰すなり何なりしてやれと、幾らか協会からでも出してくれるならまだしも、一文も出さずに出て行けというのは、あんまり酷じゃありませんか」
と、じゃんじゃん啖呵(たんか)を切った。

六人とも首がつながる

そばにいた荒岩が、
「太郎、お前呼出しのクセに何をいうか」
「冗談いっちゃいけません。呼出しだって、親方衆だって人間に変わりがないはずだ。それだけのことをいわれるなら、何も五百両も千両も出してくれというのじゃない。国へ帰る旅費と、たとえ幾らかのものでもやってくれ。そうしたら得心しましょう。それができるまで、私はここを一歩も動きません」
とやった。そしたら小野川親方が、

「太郎、こうなっちゃお互いに、協会も立ち行かないんだ。だから、協会のほうのことも考えてくれ。とにかくお前のいうこともよくわかったから、あとでおれとお前ととっくり話をしようじゃないか。おれもよくみんなに話はするが、万が一話が不調になったら、このおれが十両だすか百両だすかわからねえが、とにかく何とかする。だから、きょうのところは一まず黙って帰って、今夜おれの家へ来てくれ」

「そうですか、親方のお話しはよくわかりますが、高田川さんや荒岩さんの、何でも彼でも六人の者は要らねえという、日雇人足同様の扱い方じゃ絶対得心できねえな」
「まあいい。とにかく今夜ゆっくり話しをしよう」
「そうですか。それならまァよろしく頼ンます」
と、その場はまァおとなしく帰った。

その晩、小野川さんの所へ行ってみたが、小野川さんのいうことはなかなか筋が通っている。
「太郎や、お前のいうことももっともだ。あしたな、おれがひとつ出羽さん(先々代)に会って話をしてみよう。話がうまく行けばよし、悪ければ六人の者にはおれが出そうじゃないか。どうだい太郎、 一人百円ぐらいでどうだろう……」

 さすが小野川親方で、大した太ッ腹だ。その当時の百円というのは、今の数万円にも相当するたいへんな額である。
「親方、ありがとうございます。そうまでいって下さる親方のお心持ちは身に沁みやす。お金は五百円も六百円も要りません。ほんとの切符だけ買って下されば、あとは私が何とかしますから、出羽さんのほうをよろしくお願いします……」

 こういう私の話をそばでて聞いていた、東京方の親分、長尾貞次郎というのが、
「太郎さん、お前みたいに突っ張るやつはねえぞ。東京にも人間がつかえているんだ、あんまりお前がポンポンいったんじゃ、自然こっちにもひびいて来る。ちっとは穏便にやってくれ」
と、へんにおためごかしていいやがる。私が子供の時分からの知り合いだが、

「冗談いっちゃいけねえ。お前さん、ちっとばかり年をとったんで、ボケたんじゃねえか。大体物事を考えてみてくれ。なるほど、おれも小さい時にちっとばかり世話になったかしれねえが、おれはあれから大阪へ行って長いこと苦労した。今度合併というんで東京へ来たんだ。それがこうやって、同じ仲間の呼出しのために談判してるんだ。

何で『太郎、もっと強硬に出ろ、もし協会でいうことを聞いてくれねんならおれたちも応援するからトコトンまで闘え』といってくれね
えんだ。それが何ていいぐさだ。大阪の六人がクビになったってしかたがない、あんまり実っ張りや東京にも影響するとは何たるいいぐさだ。それでも東京の親分さんか」
と、あまり意気地がなさすぎるから、ポンポンやっつけてやったら、大将それっきり黙って引っ込んでしまった。

 そのあくる日、小野川さんが協会の座敷で両国の出羽さんと談判だ。私はわきの方で黙って聞いていた。いろいろの話の末、出羽さんが、「そうだね、小野川さん、人間も多いだろうけれども、今せっかく東京まで来ている者に、お前たち用がないから国へ帰れというのも、世間の手前見っともない。呼出し連中だって、そういつまでやっている者ばかりじゃあるまい。

そのうちには病気でやめる者もあるだろうし、商売替えをする者もあるだろう。六人や七人。今ここでクビにしたってしょうがないじゃないか。まァここんとこは、穏便にみんな使ってやることにしましょうよ……」

 あれだけの屋台骨を背負って立った出羽さんだけにわかりが早い。小野川さんと一時間かそこらの話で、すっかり丸く納まって、大阪方六人のクビも吹っ飛ばずに、みんな気持よく東京で働くことができるようになった。大正が十五年で、昭和元年と改まって十二月もわずか、すぐに昭和二年になった一月春場所、ときにかくいう前原太郎、生年まさに四十歳の働き盛りだった。

横綱宮城山秘話

 その時はこれで無事に納まったが、しばらくしてから、五十から六十に近い呼出しが五、六人クビになったことがある。確か東京方が五人と、大阪方が一人だったと思う。これは実際、役にたたないのだからしかたがないようなものだが、その時、私がもし今の立ち場だったらどうかして食い止められるか、何とかできたであろうにと、つくづく情なく思ったわけである。

 その時クビになった連中は、その後菊人形の広告ビラ配りなどして、みていて全く惨めなものだった。こっちはその立場でなかったから、いいたくもいわれないで黙っていたが、大阪から来た山崎亀吉というおやじが、運悪くその中にはいっていたので、これだけは黙って見ているわけに行かない。何とか一人だけはお情けで使ってやって下さいと嘆願して、やっとこのおやじだけは残されたようなわけであった。

 東西合併当時、大阪から来た行司で、活躍した者には副立行司までいった玉之助さん、庄之助(先代)になった正直さんの両人がいる。先々代の庄之助さんは合併前の大正十三年に大阪を脱走、東京に来てしまったのだから、玉之助や正直さんが合併と同時に来た時には、既に立派な先輩格であった。その外では玉光(現伊之助)というところであろうか。呼出しでは現に残っているのが、かくいう太郎のほかに安次郎ぐらいのもので、後はもうみんないなくなってしまった。

 合併の時、お相撲さんでおもしろいのは、大阪方の横綱宮城山という力士である。この人は決して強い相撲取りではなかったが、合併の時、運よく星が残ったので、そのまま相撲協会の番付(昭和二年一月場所)に、二十九代の横綱を張ることができたのだ。まことにのん気な横綱さんで、地方巡業ばかりでなく大阪の本場所などでも、まわしがなくて土俵入りのできないなんてい
うことがよくあった。横綱土俵入りの時間が来るというのに、まわしがないという騒ぎである。

勧進元もあわてちゃって、
「しょうがないなア、どうかしてやれ」と、木戸へ行って上がりを借り、大急ぎで質屋からまわしを受け出して来る。やっと土俵入りをさせて、すんだらまたお庫の中に持って行っちまう。たいへんな横綱土俵入りがあったものだ。

私は大阪で宮城山の近所に住んでいたことがあったが、時にとんでもないやつがうちへ来る。
「こんちワ」
「何だいお前さん」
「すみませんが、宮城山さんの電気代を払って下さい」
「冗談じゃないよ。向こうは横綱、こっちは呼出しだよ。横綱の電気代を呼出しが払うなんてことがあるかい」

「それアそうでしょうけれどね、今あそこへ伺ったら、お前さんとこはうちの仲間だから、立て替えてもらってくれというんですよ……」
「しょうがねえなア」
 こっちは泣寝入りだが、こんなことは宮城山に限らず、大阪の相撲取りはみんなそんなふうだった。力士という力士は、例外なくどこかのパクチ打ちの居候をしている。向こうもまた喜んで置いたものだから、食料にはいっこう不自由しなかった。金はバクチに勝てば持っているが、勝ったり負けたりだから、電気代を払う金なんというものは、一文だって出しやしない。

みんなパクチに使ってしまうという、まことに大した相撲取りの社会生活だった。
 宮城山のほかに、その時いっしょに大阪から来た力士には、大して強い者はいなかった。確か大阪の大関だったので若木戸という、前の備州山を一まわり小さくしたような力士もいっしょに来たが、結局これもだめだった。

そのほか鬼風という相当の力士もいたが、これも間もなく脱走してしまった。もちろん大阪の大関は、東京へ出て大関にはなれない。下の方で取ったのだが、
結局みんな大成はしなかったが、それでも錦華山とか桂川、錦城山なんというのは、まアまアよく取ったというほうだったと思う。

六、憂さつらさ、後編 七、再出発、後編