和菓子司・萬祝処 庄之助|妻の物語|神田

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女の年輪
文、畑山博

泉ちゑ 立行司・二十二代木村庄之助氏夫人

のこってのこって軍配を挙げた人

--その日の両国駅は、ひっそりとしていた。ときおり行きかう人のクツ音が、カツーン、カツンと構内に
響いては消えていった。この町にかつての名行司、庄之助翁も住んでいる。夫の長い長い修行時代と巡業の旅。
子供を抱えてはじっと、「待つばかりの日々でしたね」夫人の笑顔じわが語っているようだった。

生家を後に奉公へ

人はだれでも、歴史の遠い時間の中を、だれかの後ろ姿を追って歩いている--。
 泉ちゑさん(明治三十七年生まれ)の生まれてから最初の記憶も、桑名の町の狭い路地を天秤棒をかついで歩いてゆく母の後ろ姿である。
 夫を早く亡くした母は、毎朝港の市場で仕入れた魚をかついで町を売り歩き、四人の子供たちを育てたのだった。
 七十四歳まで生きたその母の小さな体と汗の匂い。いつも天秤の桶の底が地べたにくっついてしまいそうにたくさんはいっていた魚。
 そんな母の後ろ姿を見て彼女は育ち、小学校を卒業した。卒業しても外に出るのでもなく、働く母の手伝いをしたり針仕事をしたりして、はたちになった。
 なんの特筆すべきこともない静かな平凡な人生のスタートだった。

はたちを過ぎて、彼女は、名古屋のある料亭に奉公するために、生まれた町を出た。大正十二年、ちょうど東京に震災があった年で、大相撲もそこでは開くことができず、名古屋で特別の場所を組んでいた。そのことが自分の運命を定めてしまうのだとは、彼女に予測できるはずもなかった。

 料亭にくる大勢の客たちの中に、出羽海部屋の力士や親方衆がいた。そして、そんな人たちの中のだれかが、愛らしくてよく働く彼女に目をとめたのだろう。
「林之助の嫁にどうだろう」
 ある日科亭の主人に呼ばれて、彼女は、行司の木村林之助と見合いさせられたのだ。
 行司といっても、当時の林之助はまだ、ほんの使い走りのような下っ端だった。彼もまた香川県の貧しい家に生まれた。小学校は二年までしか行けず、九歳、屋島の叔父の家に預けられているところを、「いてもいなくてもいい子だから」といわれて人の手に
渡された。それが大阪相撲竹縄部屋関係の人
だったのだ。
 それ以来長い修業時代のまだ途中だった。行司の修業は厳しかった。使い走りにやらされることが多かった。まだ鉄道もろくにない時代。はきつぶしたわらじを往路の途中の宿屋の縁の下にそっと隠しておき、帰路わらじ銭がなくなると、それをはいて帰るというあんばいだった。

 屋島を出た翌年、郷里の母親が病気で急に亡くなった。が、遠く鹿児島に巡業中だった彼は「蒸汽賃がなくて」もどることができなかった。
 その後出羽海部屋に移って本格的な修業が始まるのだが、下積みであることは変わりなかった。
 そのうえ、彼には帰る場所というものがなかった。気まぐれな風に運ばれる木の葉のように巡業の旅また旅。本拠の両国に帰っても、だだっ広い出羽海部屋の片隅で、黙々と、けいこ、そして下働き。そんな中で、彼は、三十四歳の壮年になっていたのだった。

夫に苦労はかけられん

 そんな二人の結婚だった。当時の角界のしきたりとして、結婚式などというものもなかった。
 見合いのときもその後も、よく顔を見たことのない夫に連れられ、東京へ移ってゆくと、夫は、神田に小さな家を借りてあった。家の表は人通りの多い大通りになっていて、そこにミルクホールの店がついているのだった。
 当時は、力士たちも行司も定まったサラリーというものがなかった。

 一家の家計は、みな妻たちが髪結いをしたり、小料理屋をしたりして支えなければならなかった。
 男たちは、修業の中でやっと貯えたお金で、そんな借家の店を一軒用意できるようになったとき、結婚の資格を持てたことになるのだった。
 東京へ出てきてすぐ、親方の家に挨拶に行くと、おかみさんにまずいわれた。
「亭主に世帯の苦労をさせたら、出世できないんだよ」
 なにがどうなっているのかわからないけれど、そう運命づけられてなった自分たちの居場所を、ただ温かく居やすい場所にしよう、と彼女は思った。

 夫は、五月に家を出ると十二月まで巡業巡業でただの一日も帰らなかった。十二月もどってきても、冬中なをひんぱんに家を空けなけれぱならなかった。
 そしてその間中妻はただ黙々と働きつづけた。初めコーヒーと紅茶の区別もわからなかった妻が、なれた手つきでミルクセーキを客の前に出せるようになったのだ。

夫が巡業先でどんな暮らしをしているのかわからなかった。力士たちの女性関係は華やかだった。それがあることが男の甲斐性だった。もしかすると夫もと思うが、それが夫の身を置いている世界なのだという諦めと、自分できりもりできる仕事を持っているという誇りが、彼女を詮索好きな主婦にしなかったのかもしれない。

 相撲という男社会はまた、盆や正月など、よく一門の集まりをし、そこでは徹底的に妻族たちを立てる。
 一年の三六○日が男の得する日で、残りのたった五日かそこいら分だけが女牲上位。それをしかし不公平とかふらちとかいわない女たちは、おとなしすぎたのだろうか。それとも女神だったのだろうか。

母の後ろ姿が心の支え

 長男が生まれ、夫の行司の位も少しずつ上がっていった。
 そして戦争。二男が生まれ娘が生まれ夫が満州慰問団に加わって長期にわたって出てしまっている間、彼女は、多摩川奥沢仁疎開してその子たちを育てた。

 なけなしの衣類を近くの農家へ持っていき、イモと換えて子に食べさせた。衣類がなくなると、今度は自分でわずかな土地を借り、耕して、カボチャやキュウリ、イモを作った。
 炎天下、一人で地べたを耕しながら、遠く満州にいる夫を思った。いつも家にいない夫だけれど、今度こそ本当に帰ってこなくなってしまうのではないかと不安が突き上げてくる毎日だった。

 いつも朝、彼女がまだ眠っている暗いうちに起き出していったあの母の後ろ姿と、天秤棒のきしる音を、彼女は思った。
 その姿を知っていることが、今自分の支えになっている--そう思った。

 敗戦。どこの家々にもあった虚脱と再出発。帰ってきた夫は少したくましくなり、戦地に近い臭いをかすかに残していたが、やがて時間が、なぎさの砂をならす波のように親子の暮らしを元にもどしてくれた。

 朝。夫がそろそろ起きてきそうな時間になると火鉢の火をおこし、起きた夫がお茶を欲しがりそうな予感がすると、さっと出す。
 顔を洗うために夫が流しへ立てぱ、さっと洗面器の湯を差し出す。いつも夫がなにかを要求する前にそれをキヤッチして、さりげなく出す。

 男の身勝手だとか女の主体性とかいうチンプなことぱは、彼女には不向きなのだと思う。
かしずくことは彼女にとって一種の儀式なのだ。
 愛情というよりもっと素朴な、会えずにいた時間の長さを一挙に縮めようとするポエムなのだ。
 それだから今、七十八歳になってもまだそのままにしつづけている。
「なにもない人生でした…」
彼女はいう。
「いつもただ待っているだけの日々のようでした」

 待ちつづけ、ときおりわずかに癒されたかなと思うと、また待つ日がつづく。そんな日日ばかりを、はるぱると過ごして、わが家に
もわたしにも、人生の一○大ニユースといえるような節目はなに一つないんですよ、とも彼女はいう。
「あ、いや違います。たった一つあります」

それは夫が木村庄之助という立行司の地位に上りつめ、七十四歳で引退したとき。そのほんの少し前、相撲界に月給制がしかれ、老いた妻は初めて夫から給料袋というものを渡された。たった二度だけのサラリーだった。

「それからは、ずっとわたしのそばにいてくれるのですよ。会う時間がずっと少なかったせいか、わたしは夫のことをちっとも知らな
かったのですね。夫の体のここに、ああ、こんな面白いところがあったのか、なんて、今でもちょくちょく発見するんですよ」

 よきかな。在ることの賛歌。二十代の娘のうに今瞳をかがやかせて、彼女はいう。今は、息子たちが神田で「庄之助もなか」
のお店を出し、電気の店を持って独立している姿を、頼もしくわきから眺めながら夫と茶を飲んで過ごす隠居暮らしである。

介添えの夫に従いて

 人生の長い長い時間をかけて目立つことなく蒔きつづけた種が、ようやく花を咲かせたのだと思う。
 東京、両国。路地に面し、玄関前にほんの畳半分ほどもない狭い植木と花の囲い。花に静かに水をやることの似合う夫婦である。
 ふといたずら心を起こして、私は庄之助氏に聞いてみた。
 ところで、お二人のうち、どちらが先に懸想したのでしょうね?
 二人はにこっと顔を見合わせた。それから豪快に夫がいった。
「向こうでしょうな」
またあんなこといっている、とでもいうふうに、でもまんざらでもなさそうに妻も笑い声を立てた。

 平凡に生きた二人。
 でもその平凡は、けっして蜂のないただのサバンナではない。インタビューの終わり近く、九十一歳の庄之助氏が、こんなことをいった。
「昔の相撲取りは、迫力があったな。今はただ『勝て、勝て』だけど、昔は違う。引かば押せ、押さぱ忍べといってね、踏んばる姿こそ力士の本領だった。だから力士っていったんだ……それだから、みんな体がぴかぴか光っていたもんだよ…」
「……………」

「土俵へ上がった力士たちを見るとね、気力でわたしには、どっちが勝つかわかったもんですよ。勝負は、気力だったんだよ…行
司っていうのは、気と気のぶつかり合いをいかに引き立てて見せるかという仕事なんですよ」

 華やかなスターたちの祭りのそばで、じっと介添え役に徹し、それをしつづけてきた夫。つつましいその夫の後から、さらにつつましく従いてきた妻。
 年月は、二人の受け持ちを変えていない。引退してもなお庄之助氏の、浮き世と自分の在りかたを認識する姿勢は変わっていない。
妻は、「夫が自分のするべき仕事をいつも増やしてくれた、それだから自分は退屈せず、曲がりもせずに生きてこられた」という。

 そして夫は、妻の作って出したものは、それが全世界のどの美味よりも最高のものだと信じこみ、ついこの間出羽海親方と一門が自分の九十の年を盛大に祝ってくれたように、同じ齢を妻にも重ねさせようと願っている。

 ところで、と最後に私は聞いた。
 庄之助さんが行司を引退されて、お二人で仲よく家の中で暮らせるようになってから、どのくらいになりますか?
「そう…」
と庄之助氏は目を閉じた。

 それからゆっくりと胸の前に手を出して、指を折り始めた。
「やめたのが三十五年だから……三十六、三十七、三十八、三十九、四十、四十一、四十二……」

 ふつうの人のように単純に昭和五十六年から三十五年を引いて二一年というふうには暗算せず、節くれだった指を、力をこゆて片方の手で折り曲げながら、「五十二年、五十三、五十四、五十五、五十六年」と数え、じいっと妻は思い出すように確かめるように、その指を見つめつづけていたのである。