和菓子司・萬祝処 庄之助|蔵前国技館までの流転|神田

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二十二代庄之助一代記〈第十五回〉
泉   林 八

蔵前国技館までの流転
 大相撲は、戦争末期ももちろん大変だった。しかし、当時は相撲そのものの人気があったからまだしも、終戦直後の苦労はさらに大変なものだった。

 それでも、二十年十一月には、早くも両国国技館で、戦後第一回の本場所を行うことができたが、そのすぐあとに国技館が占領軍に接収され、

 一年間も本場所が開催できなくなると、相撲人気は急激に下降、プロ野球人気の急上昇におされて、相撲なんぞは見向きもされなくなっていった。

 昭和二十一年以降の本場所の開催地をみても、相撲協会の苦労のほどがわかる。
 21年11月6~18両国メモリアル・ホール
 22年6月1~13明治神宮外苑相撲場
    11月3~14   〃
 23年5月13~28   〃
    10月15~25 大阪・福島公園仮設

 24年1月12~24 浜町公園仮設
     5月15~29   〃
    10月9~23  大阪・福島公園仮設
 25年1月14~28蔵前仮設①
     5月14~28  〃
     9月17~10月1大阪・阿倍野仮設

 26年1月14~28蔵前仮設②
     5月13~27  〃
     9月16~30大阪・難波仮設
 二十一年度は、十一月に、アメリカ軍の室内体育館に改装された旧両国国技館のメモリアル・ホールを、駐進軍から借りうけて、なんとか秋場所を開場したが、とうとう年に一場所しか本場所を開けなかった。

 メモリアル・ホールの借用はその一度だけで、ついにその後一度も使わせてもらえず、本場所開催地は、巡業並みに流転するのである。

 二十二年夏は晴天十日間、同秋は晴天十一日間、二十三年夏は同じく晴天十一日、すべて明治神宮外苑相撲場で行われたが、文字通りの青天井土俵。

 秋場所は雨天中止が一日ですんだが、二十二年夏は十日のものが十三日、二十三年夏は十一日のものが十六日間もかかった。
 しかも、相撲気分がもっとも横いつする正月場所を、青天井では開催できない。

 そこで、二十四年春場所は、日本橋の浜町公園に仮設国技館を建設して行われた。四十間(七三メートル)四方、建坪二千三百坪(七千六百平方メートル)、

 収容人員一万人、総工費五百万円の木造だったが、新田建設社長のおとこ気によって完成、消防署とGHQの許可を受けて、十三日間行われた。

 同年夏場所も、同じく浜町河岸の仮設国技館で、戦後はじめて、十五日間制で行われ、のちずっと十五日間となる。

 仮設木造とはいえ、常打ちの国技館を持って、相撲興行の形態が整い、大相撲復興のきざしがみえはじめたと思った矢先、
 公有地である公園に仮設の相撲場などをいつまでも残しておくことが問題となり、
 取りこわしを申し渡され、五百万円かけた浜町仮設国技館も、たった二場所でフイになってしまった。

 二十五年春場所からは、浅草蔵前に定着した。
 蔵前の土地は、戦前に相撲協会が買い入れ、倉庫会社に賃貸していたものだが、この土地に、総工費千五百万円をかけ、四十一間(七五メートル)四方の仮設国技館を建設。

 出羽海理事長(元横綱常ノ花)ら協会幹部の家を担保にして金を借りたという。

 やれやれと思ったのもつかの間、同年夏場所を終わったところで、この国技館も、消防暑から危険視され、取りこわし命令が出て、これまたたった二場所であきらめざるを得なくなった。

 こうなっては、たとえ仮設であっても、木造でなく、鉄筋の国技館を建設しなければならない。

 出羽海理事長らが四方八方走り回ったあげく、座間海軍航空隊の組立工場の鉄材を払い下げてもらう交渉がまとまり、四百万円で買い取る手はずがととのい、六月何日かに契約を完了した。

 朝鮮動乱がボッ発したのは、その直後のことだった。鉄材はいっぺんに三倍から、さらに五倍にはね上がってしまった。 
 まさに危機一髪、契約がたとえ一日でも遅れていたら、払い下げ鉄材を目の前にしながら、なすところなく見おくらなければならないところだったという。

 この幸運がきっかけになったように、相撲協会はとんとん拍子に人気を取り戻していった。銀行はカネを貸してくれるようになり、
 蔵前国技館は五か年計画で場所ごとに充実していき、二十九年九月、とりあえずではあったが、蔵前国技館の開館式を挙行したのである。

福島公園→阿倍野→難波
 東京もそうだが、大阪も、東京にまさるとも劣らぬ苦労の連続だった。
 大阪・福島区の福島公園に、四十間四方、収容人員一万人の仮設国技館を建て、戦後初の大阪本場所を開催したのは、二十三年十月秋場所、十一日間だった。

 昭和はじめには大阪場所が都合四回行われているが、当時は東京本場所と同じ番付を使用していたので、新番付を出して打つ本場所興行は全くはじめてである。

 協会としても、ある程度自信を持って開催したのだろうし、今後毎年秋場所は大阪で行うことを決めたのだが、
 当時はまだ関西人に本場所と花相撲の区別が分からず、力士が果たしてどの程度真剣に取っているのかに疑いをもっている人が多いようで、非常な不入りだった。

 翌二十四年も、十月に、同じ福島公園で十五日間興行したが、これまた不入り、協会にとって手痛い大赤字となった。
 そこで二十五年秋は、福島から阿倍野区阿倍野橋畔に移し、仮設国技館を建てて行われ、場所がよかったせいもあって、わずかながらも黒字を計上した。

 さらに二十六年秋場所は、大阪ミナミの中心地・難波、現在の大阪府立体育会舘がある場所に、仮設国技館を建て、興行したが、この場所はまれにみるほどの充実した場所になり、熱戦が続出して大変な人気を呼び、大阪にも相撲人気が定着した。

 東京では、二十四年一月の浜町あたりから人気を盛り返し、二十五年五月で完全な人気となり、大阪では阿倍野で関西人に相撲人気が浸透、難波に移って爆発した。
 そしてその人気は、昭和三十三、四年を頂点とする〃栃・若〃時代へつながるのである。

出羽海部屋の火事と落成
 話を二十一年まで戻す。
 秋場所には、大蔵省、勧銀、相撲協会が協力して、相撲クジを発売した。
 そのため取組を、横綱、大関以下を二分して、中入り前と結びに分けて行い、中入り前の好取組三番を対象にして売り出された。
 しかしクジもさほど売れず、評判もよくなかったため、一場所限りでとりやめになった。

 十六日の十一日目、皇太子殿下が、砂かぶりで本場所をご覧になった。
 千秋楽翌日の十九日、同じメモリアル・ホールで、大横綱双葉山の引退披露大相撲が行われた。この日ばかりは大相撲人気も数年前に戻り、本場所中に一度もなかった〃大入り満員〃を記録した。

 二十二年夏場所から、優勝決定戦制度が始まり、同年秋場所から、系統別総当たり制度が復活、三賞制度が始まった。これらは相撲記者クラブの意見をとり入れたもので、当時は、相撲協会も、人気回復のために次々と手を打っていったのである。

 その間、二十二年十一月三日、秋場所初日の晩に、春日野部屋の隣の油屋の倉庫が火事になり、そのもらい火で春日野部屋が全焼。同時に、出羽海部屋が仮住まいしていた元安芸海の家まで全焼した。

 出羽海部屋は、現在の両国一丁目十二番地、京葉道路の北側、隅田川の川っぷちの部屋が、二十年三月十日の大空襲で全焼。そのあと、豊島区池袋にある大きな後援者の家を借りて全員が住んでいたが、そこがまた火事で焼けてしまった。


 このときに山岡鉄舟や清水次郎長の軸が焼けてしまい、出羽海相談役(小結両国)が「戦災のときやっと持ち出したのに」とがっくりしていたのを思い出す。

 そして、いまの両国一丁目六番地、春日野部屋の南にあった安芸海のもとの家を出羽海部屋にしていたのだが、それが十一月三日に全焼した。

 この夜は、出羽海後援会の小沢さん、清水さんと藤島親方(常ノ花)が、出羽海部屋再建の下相談をしていたそうであるが、

 その夜中に、仮の住居まで全焼してしまった。出羽海部屋は、二年半ほどの間に都合三度火災にあったことになる。
 このときは、近所にあった錦島部屋は、すんでのことで類焼をまぬがれた。

 現在出羽海部屋のある土地(両国二丁目三番地)は、出羽海後援会の土地で、二十三年の二月九日に地鎮祭を行い、四月末に、堂々たる出羽海部屋が完成した。
 十一月三日から翌年四月末まで、出羽海部屋は、隅田川と竪川の交わった北側、現在の両国一丁目四番地にあった武隈親方の家に仮住まいしていた。

立田川と出羽海の急死
 二十三年十二月三日に立田川理事が亡くなった。満五十六歳だった。
 明治二十五年六月二十日、山形市七日町生まれ。九代目式守伊之助の弟子で、のち養子となり、刀根亀吉。

 三十二年夏、初土俵、式守亀司から亀吉、錦之助と改め、大正十一年春、幕内格に上がり、同年夏、四代目式守錦太夫を襲名、昭和二年春、八代目式守与太夫となって三役格に上がり、七年十月、十六代伊之助になるなど、出世は早かった。

 頭脳明せきで、事務能力があり、話のわかる立派な人物だったが、行司としては一流とはいえず、故実などは覚えようとはせず、土俵祭もやったことがなかった。
 十三年夏限り伊之助のときに引退、年寄立田川となり、理事まで昇進した。

 前にも書いた通り、大阪にいた私が、大正十一年三月、東京との合併相撲があったとき、宿舎に訪ねていって東京行きについて相談したのがこの人だった。年こそ私より下だが東京へ行くきっかけをつくってくれた人で、私の恩人といえる。

 その一か月ちょっとあとの二十四年一月十一日、春場所初日の前日に、出羽海相談役が、脳いっ血のために、七十四歳で急せいされた。

 明治七年三月二十八日、長崎県諫早の生まれ。 二十四年、大阪へ出て、九九之助と名乗って大阪力士となり、三十二年六月、一軸九八郎と改めて入幕、三十三年六月、国岩九八郎とかえ、三十五年六月、小結に上がり、七戦全勝の好成績をあげ、次場所の大関を約束されながら、常陸山にさそわれて東京相撲へ転じた。

 両国梶之助と改名。
 太刀山を一本背負いやたすき反りで倒して四勝四敗、梅ケ谷や荒岩に勝ったこともある。

 小兵ながら奇手縦横で、最高位小結。四十五年春限り、三十七歳で引退、年寄入間川となって取締、常陸山・出羽海の死後は出羽海を継ぎ、協会首脳として才腕をふるった。

 私も大阪相撲の出身ということから、東京への移籍や、出羽海部屋所属の行司として、秘書役のようなことをおおせつかり、ひとかたならずお世話になった。

 昭和七年に、天竜事件の責めを負って取締を辞任してからも、相談役として、協会に隠然たる勢力をもっていた。
 この人こそ私の最大の恩人といえるが、立田川さん、出羽海さんの相つぐ死去には、さすがのんき者の私も、少なからずショックを受けた。

 出羽海の後継者については、年寄衆が集まって相談したうえ、異論もなく、全員一致で、常ノ花の藤島親方が、七代目出羽海を襲名することに決まった。そして、藤島のあとには、安芸海の不知火親方が決まった。

鯵ケ沢-江差-奥尻鳥
 二十一年から二十三年へかけての不人気はひどいもので、巡業の売り込みも苦労の連続だった。力士の野球チームと地元の野球チームの試合を、相撲興行とコミで売ったり、入場料のかわりに、コメやダイコンでもいいという条件のときもあった。

 二十二年の夏巡業でのはなし。
 青森県西津軽郡鯵ケ沢巡業の翌日は、北海道檜山郡江差町、あの有名な江差追分の町だ。当然、津軽海峡を船で渡る。

 鯵ケ沢で、ちょっと天候がおかしいというので石炭をたき、早目に打ち出して、相撲場の裏手で待機している船に乗り込んだのが午後三時前、すぐに出航して十五分ほどはよかったが、沖に出たとたん、船は木の葉のようにゆれ出した。

 当時の出羽海一門は、汐ノ海、増位山、千代の山に、前田山ともめていて出羽海部屋に居候中の東富士が看板だった。
 六十歳くらいの船員が、こんなことをいった。

 「わしは五十年近く船に乗っているが、こんな荒れ方ははじめてだ。
 こうなっては鯵ケ沢には戻れない。方向を少しでもかえたらひっくり返る。波にさからわず前へ進むだ けだ」

 普通なら五時間でいく距離を九時間、大ゆれにゆれ続けたあと、ようやく風がないだときは十二時をすぎていた。
 そのとき江差の方向にチラチラとあかりがみえたときの喜びは大変なものだったが、そのあかりは、先乗りと江差の人たちが心配してふってくれたチョウチンの灯だったらしい。

 その翌日の巡業地は、奥尻島(奥尻郡)の奥尻村。
 奥尻島は、伊豆七島の大島と同じくらいの大きさの島で、江差から奥尻までの距離も、東京から大島までとほとんどいっしょの八十キロくらい。

 江差の海岸に出てみると、きのうにまさるとも劣らぬ大変な荒れようだ。
 「まだ船酔いがなおらないのに、また船はご免だ。
 こんどの船はきのうより小船だそうじゃないか。今晩は江差に泊まって、風がやんだらあすの船に乗 ろう」

 こう相談がまとまり、奥尻の先乗り・小野川親方に電報を打つと、土俵入りのころに小野川さんからの電報がとどいた。

 「ワレコマルタスケテクレ」オノガ ワ
 「親方は困るだろうがそうはいかん」
 と話し合っているうちに、小野川親方が奥尻の勧進元を連れ、荒波を乗りこえてやってきた。こうなってはこっちも弱い。
 とうとう説得されて船に乗り、またも荒波の中を三時間半、くたくたになって、奥尻港へたどりついた。

 島民七千人総出で歓迎してくれるのだがこっちはそれどころじゃない。二日続きの疲れ、船酔いに全員げんなり、わかしてくれたフロにはいる元気さえなく、バッタリぶっ倒れるように寝てしまった。

 

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