和菓子司・萬祝処 庄之助|二十二代庄之助を襲名|神田
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二十二代庄之助一代記〈第十六回〉
泉 林八
二十二代庄之助を襲名
昭和二十六年夏場所後、二十一代木村庄之助が引退して、年寄立田川を襲名した。時津風(横綱双葉山)部屋の親方として新天地をひらくことになったわけだが、そこではからずも、私が行司の最高位である庄之助に上がることになったのである。
庄之助家の初代は、中立羽左衛門清重というお侍で、信州松代十三万石真田伊豆守の家臣。おひまをいただいて浪人し、寛永年中に勧進寄相撲を行った、とある。
そのあとが、木村家の系図によれば、二代目は木村喜左衛門清明で、元禄十一年の番付にその名があり、三代目は中立正之助正智、享保九年の番付にみえる。
四代目は木村若狭守正規といい、幼名正之助。この四代目が中興の祖といわれる。
この人の墓は、小石川関口台町(文京区関口三丁目)の妙法山蓮光寺にあり、享保十五年四月十九日没、戒名は「本源院殿成観唱悦日栄居士」と読める、
私たち行司は場所ごとに参詣し、ご住職も、本場所の初日には行司部屋へ来てくださるのを例としていた。
五代目が中立正之助正武で、吉田善左衛門追風より、故実門人として伝授を受けたと伝えられ、その子が六代目木村庄之助になったということになっている。
また、文政十一年の将軍家上覧相撲に身分証明のため、官途に提出された木村家の先祖書をみると、中立羽左衛門を初代とすることは同じであるが、
中立羽左衛門より三代目に至り木村庄之助と姓名を改め、五代目庄之助になって、寛延二年八月、吉田善左衛門追風の門弟となった。
当庄之助は祖先羽左衛門より九代目である、と書いてある。
系図と先祖書では、三代目以下少々名前などに食い違いがあり、系図の三代目と四代目は時代が接近しすぎていて、あるいは同一人物ではないかという説もある。
ともあれ当時吉田司家には四人の高弟があり、南は日高、北は水本、西は金田、東は木村とよんでいたが、のち日高、金田の両家は断絶し、水本は南部の家臣になったため
、木村家は吉田門下の最高家として、日本相撲行司目付と定められ、東三十三か国の束ねをするようになったという。
五代目庄之助(正之助)から記録もかなりはっきりしてくる。初代庄太郎から寛保三年八月に改名、六代目は二代庄太郎から宝暦四年に庄之助となり、初代式守伊之助のちの式守蝸牛の師匠である。
七代目は六代目の弟子で初代伊之助の兄弟子、三代目庄太郎から昭和八年三月に襲名、八代目は七代の弟子、四代庄太郎から寛政十二年四月に庄之助襲名、のち隠居して喜左衛門となり、松翁を許されたという説もあるが、
松翁になったのは九代目という説、十代目という説があって、いまだにはっきりしない。
この八代目あたりから、行司といえば庄之助といわれるようになり、立行司筆頭の地位を完全に確保したらしい。
九代目は八代の弟子、五代庄太郎から文政七年十月に襲名、十代目も八代の弟子、六代庄太郎から天保四年十月に襲名、十一代目は十代の弟子で七代庄太郎から襲名。
十二代目は八代の弟子で、初代正蔵から襲名、十三代目は加賀の人、八代目晩年の弟子で、三代多司馬から嘉永六年六月に襲名して二十四年間も庄之助をつとめた。十四代目は江戸の人、十代の弟子で十代庄太郎から明治十年一月に襲名している。
十五代目も十代の弟子で越後の人、四代庄三郎から明治十八年五月に庄之助となり松翁を許された。
一番の差し違いで引退
十六代目は三河の人で、十三代の弟子、初代誠道から明治三十一年一月に襲名。ちょんマゲを結っていたので、俗に〃ちょんマゲ庄之助〃といわれた。本名拓新助。
私の知っている庄之助はこの人からで、明治三十八年九月の東西合併相撲のあと、合併で九州を巡業したとき、まだ子供だった私は、この人にいろいろとかわいがってもらった思い出がある。
この人は、名行司の名が高かったが、晩年は中風にかかり体がふるえるため”ブル庄”ともいわれたが、仕切りを合わせているときはふるえていてもいったん立ち上がると足もともしっかりと見違えるばかりになった。
翌日の顔ぶれ(取組披露)を読むときは、とくに土俵上、床几を許された。
十七代目は十五代の弟子、阿波徳島の人で、大阪から東京へ出て、十代伊之助から明治四十五年一月に庄之助になった。
十七代も名人といわれ、五十三年間の行司生活中ただの一番も差し違いがなかったが、大正十年夏場所五日目、横綱大錦の寄りを鞍ケ嶽が左へうっちゃったとき、
鞍ケ嶽にうちわをあげながら、入間川検査役から、鞍ケ嶽に踏み切りがありと物言いがつき、結局差し違いと決した。
柳橋の自宅へ帰って衣服を改めたあと、師匠友綱を訪ね、失態を詫びたあと「私一個は軽いが、二百年続いた庄之助の名に対して面目がない。今日限り辞職してお詫びしたい」と申し出て、協会に辞表を出した。
協会役員、大錦、鞍ケ嶽らが辞表をひるがえすよう勧告したが、断固土俵を去った。
辞職は武士でいえば切腹も同じと、所有していた装束、帯刀、うちわなどをすべて赤房以上の行司に遺品として分配した、という。
この庄之助は、本名浪華から酒井兵吉となり、八歳のときに大阪相撲の竹繩部屋にはいったというから、私にとっては直系の大先輩に当たるわけだ。
明治十八年、海山(のち友綱)を頼って上京している。
十八代目が石川県金沢生まれ、十四代の弟子、本名浅野長太郎、初代朝之助から大正十一年一月に襲名。書がうまく、顔ぶれ(明日の取組披露)が天下一品といわれた。
十九代目は九代伊之助の弟子、東京の人で本名鬼頭多喜太。十三代伊之助から大正十五年一月に庄之助になった。
二十代が松翁の庄之助
二十代目は栃木県鹿沼の人、名川姓から八代伊之助の養子になって後藤子之吉。本名の子之吉から、錦太夫、与太夫を経て、十五代伊之助から、昭和七年十月に襲名。
人格、識見、土俵態度、うちわ裁きなど、すべてにおいて抜群で、十年夏場所後、松翁を許された。
松翁号は相伝ではなく、庄之助中の抜群の名人にのみ許される尊称で長い大相撲史上、三人だけである。
松翁は私の師匠格に当たる人で、覚書を集めた「国技勧進相撲」の著書があり、最近になって、注釈などをつけて読みやすくしたものが刊行された。
現在の三役格式守錦太夫は松翁の養子で、その没後は私の預かり弟子となって修業した行司である。
二十一代目は長野市篠ノ井の人で、本名竹内重門、井筒部屋に入門して、のち伊勢ノ海から時津風に変わり、十七代伊之助から昭和十五年五月、庄之助になった。年寄立田川を襲名してからは、時津風理事長の後ろだてもあり、協会理事、監事の要職を歴任した。
そして私が二十二代目となる。
伊之助になったとき、吉田司家の故実門人になり、行司の故実、作法、相撲技に関する巻き物などもすでにちょうだいしていたが、
同じ立行司でも伊之助から庄之助になるともうひとつ責任が重いわけで、初日などは確かに緊張もした。
しかし、絶対間違わないんだという責任感と自信を持っていたから、精神的に動揺 するなどということは全くなかった。
庄之助家には代々〃ゆずりうちわ〃というものがあり、これはタガヤサン(鉄刀木-インドネシアなどに自生するマメ科の喬木。心材は黒と赤の紋様があり、堅牢美麗)でつくられた古いもので、私で八代相伝といわれていたから、いまの庄之助(二十七代目)では十三代相伝ということになる。
表に「進知退知 随時出処」
裏に「冬則竜潜 夏則鳳挙」
と、金粉の蒔絵風に文字が浮き出している立派なもの。私は本場所の十五日間に限ってこのうちわを使用した。
最近、行司うちわのことを軍配とか軍扇とかいう人が多くなり、審判長が物言いを説明するときにも「軍配は東にあがりましたが」などといっているが、私たちは昔からずっと団扇と書いて〃うちわ〃といってきた。
松翁の本にもすべて団扇とある。
昔の本に軍配団扇と書いたものをみたことがあるが、これは軍配型をしたうちわという意味であろう。
軍配とか軍扇とかいうのは、一方の大将が一軍を指揮するときに用いるもので、勝負を裁く行司うちわ、裁きうちわとは根本的に違うものと、私は解釈している。
差し違いにもいろいろ
私にも差し違いの苦い思い出がいくつかある。まずまっ先に思い浮かぶのが、昭和十九年春場所二日目、伊之助時代の横綱羽黒山と備州山の一番である。
備州山が突っ張りからもろ差しになってどっと出ると、羽黒山は棒立ちになりながらも剣が峰でこらえて右から突き落とし。備州山がのめって前へ落ちたのちに、羽黒山の左足が土俵を踏み切った。
明らかに羽黒山の勝ち。私はためらわず羽黒山にうちわをあげた。そして勝ち名乗りをあげかかったとき、荒磯検査役(関脇新海)から物言いがついた。
正面の藤島取締(横綱常ノ花、この場所後理事長となる。のち出羽海)の合図によってつけた物言いで、土俵上の協議では、追手風(大関清水川)立田山(大関能代潟)粂川(大関鏡岩)すべてが行司のうちわ通りを主張しているのに、藤島取締が強引に
「それじゃあ取り直せ」という。
そこで羽黒山方の控えをみると双葉山がいた。当時は控え力士の発言力が強く、双葉山なら大横綱でもあり、羽黒山の勝ちを強硬に主張するだろうと思った私は、
双葉山のところへいって「私は羽黒山のものとみましたが」というと「よく分からん」と煮えきらない。当時は私も若かった。カーッときてこう口走ってしまった。
「羽黒山の負けにしてもいいんですね」
それでも双葉山は「仕方ないな」という。 ますます頭にきた私はさっさと備州山を呼んで勝ち名乗りをあげてしまった。
検査役の判定は〃取り直し〃だったのに自ら自分の〃差し違い〃にしてしまったのである。それでも取締と検査役は知らんふり。
控え行司の立田川さん(当時庄之助)が「おかしいんじゃないか」と、ぶつぶついっていたようだったが、そのままうやむやに終わってしまった。
そのあと私は”進退伺い”をふところにいれて取締室にいき「親方、なんですかあれは!」というと、藤島さんは顔をかくす格好をして「まーま、がまんしろ、そうおこるな」といい、ふところから進退伺いを出そうとすると
「わかってる、わかってる、そんなもの出すことはないじゃないか」ということでごまかされてしまった。
私もバカなことをしたもので、いまになっては冷や汗ものだが、取締のごり押しも当時はひどいものだった。
庄之助時代にも、私のうちわが正しかったのに差し違いにされたことがある。
三十四年春場所九日目、もろ差しになった北の洋が、横綱若乃花の左巻きかえに乗じて寄り進み、右の渡し込みからもたれ込むと、若乃花も倒れながら右から上手投げを打った。
「北の洋の右ヒジが早い」とみた私はさっと若乃花にうちわをあげたが、伊勢ノ海検査役(柏戸)から「北の洋に分がある」と物言いがつき、吉葉山(のち宮城野)岩友(神東山)高田川(朝若)がこれに同調。
佐渡ケ嶽(琴錦)一人がうちわ通りを主張したものの、四対一で北の洋の勝ち、差し違いと判定された。
あとで新聞社のコマ撮り写真で、私のうちわの正しさが証明された。
痛恨の差し違いひとつ
と…偉そうなことばかりを書いてきたが、私にもミスがなかったわけではない。
庄之助になったばかりの二十七年秋場所十日目、横綱千代の山が右差しで寄ると、大関鏡里が正面土俵際で倒れながら右からすくった。鏡里はあお向けに倒れ、千代の山は時津風検査長の前へ落ちていった。
私は、うちわを鏡里にあげながら、そのときすでにしまったと思った。
私たち行司は、子供のころからうちわを早くあげる習慣がついている。一方の体がなくなった瞬間に、逆の力士へあげるのである。
そこで、千代の山の体勢が飛んだと思った瞬間、鏡里にあげたわけだが、その直後に鏡里がバタッと下に落ちたのに対して千代の山が上のほうへ飛んだ分だけ、千代の山に有利になった。
明らかに差し違い。痛恨の凡ミスだった。
十一代目の式守伊之助は、京都相撲の行司吉岡一学の養子となり、のち東京相撲ヘ加入、木村進から伊之助になった人だが、この人は「勝負ありー、勝負ありー」といってうちわをあげない。
大ゲサでなく、両力士が倒れて起き上がり、自分の片屋へ戻るころにうちわをあげた。
そのくらいゆっくりしていた。ほかのことは、字を書いても事務をやってもなんでもこなす有能な人だったが、行司だけはスローモーで実にヘタクソだった。
もう一番、三十一年初場所十三日目、横綱吉葉山が大関松登に突き勝ったあと、左をのぞかせて出ると、松登は土俵にツマ先立って右から突き落とした。
松登の右足が土俵を割るより、吉葉山の落ちるのが早いとみた私は、うちわをさっと松登にあげたが、湊川検査役(十勝岩)から物言いがつき、行司差し違い、つまり吉葉山の寄り切りが認められた。
この相撲も、私のうちわが間違っていたとは考えていない。悪くとも取り直しの相撲だったと、いまも確信している。