和菓子司・萬祝処 庄之助|六、憂さつらさ、前編|神田

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呼出し太郎一代記、11

前原太郎

六、憂さつらさ、前編

喧華名人力士の双璧

 こうしてまた大阪へ帰ってはみたが、私のような乱暴な若い者を、快く置いてくれる所はどこにもない。そうかといって、何とかしなければ食うこともできないから、土橋にある相撲協会に行ってみた。

すると、東京相撲の平錦というのが脱走して来ている。これは相当強かった力士だが、私もかねてから知っている仲だ。
「オオ太郎さんじゃねえか、久しぶりだな。どうしているんだい?」
「どうもこうもねえんだ。食いつめちゃって手も足も出ねえ」
「どうだい、一丁(バクチ)行こうか」
「行こうったって元がねえ」
「元なら何とかしようじゃねえか、さァ行こう」
と、二人で質屋に一目散。平錦は着てるだけ脱いで賭場へ行く。負けてしまうと、
「もう一ぺんアソコへ行こう」
と、前の質屋へ行って、
「おやじ、おやじ、さっき入れたのを出してくれ」
といって、そっくり着てしまって、さて、
「実はね、おやじさん、ゼニはバクチでみんなとられてしまった。はだかじや帰れねえから着物
はもらって行くよ……」
 質屋のおやじはポカーンとして黙っちゃう。何といったって、こっちは着てしまっているんだし、相手は大きな相撲取りで乱暴ものだから、ふるえ上がってしまってる。平錦というやつは、喧嘩の強いことも有名だった。度胸があって腕っぷしの強いという点では、また平綿と、君ケ嶽というのが双璧だった。

 君ケ嶽というひとはまだ紀州で生きているはずだけれども、この大将は信田山という相撲取り叩き斬って、すんでのことノビてしまうところだったので、協会でも君ケ嶽をクビにしたりさアたいへんだ。先生ドスを持って協会に暴れ込んで来た。
「さァよくもおれをクビにしやがったな。斬った斬られたはお互いだ、斬られたやつが悪いじゃねえか」
と、ピカピカする物を持ってグッと睨んでいる。そのとき協会の二階には十人ばかりいだが、二階が高いので飛び降りるわけにもいかず、みんなふるえ上がってしまった。その中で死んだ千田川という人だけはみごとだった。ビクともしなかった。

それから行司の木村越後--正直さんの親方--この人も、ただ黙ってニコッと笑って、君ケ嶽の手をパッと押さえつけ、
「君ケ嶽止せっ」
とやった。そのくらい立派なものだった。何しろ君ケ嶽というのは、喧嘩では強い大将だった。平錦は相撲で大関までとった人だし、君ケ嶽は幕内の下のほうだったが、この白錦でさえ岩ケ嶽には一歩譲っていたくらいである。

 朝日山、葛城山、小九紋竜などという錚々たる幕内力士だって、まごまごしてたらヒッ叩かれてしまうのだから、よほど腕っぷしの強い男だったに違いない。 当時の時津風一門といったら、そういう乱暴な腕っぷしの強いやつばかりだったから、どこへ行っても一ぺんに恐れをなしてしまう。

大阪の松島といえば、ゴロツキの巣みたいな所で、ある時そこで、時津風一門の若い者が二階でバクチをやっていたら、愚連隊が三人ばかり二階に上がって来て、
「ホオ、君らどこの者だい?」と、いんねんをつけ始めたが、
「ああ、おいら時津風の者だよ」というと
「失礼しやした…」
といって、ゴロツキやパクチうちでさえ、コソコソと逃げ出すくらいだった。河内(大阪府下)という土地はうるさい所で、勧進元も何とかして給金をゴマ化そうとする。そんなことをしたらたいへんだ。
「文句を言うな、出すものは出せ」
と、腕っぷしの強いのが出て行くのだから堪まらない。さすがの河内地方でも、われわれ時津風一行といったら、名前をいったばかりですでに一目も二目も置いたくらいだった。

剣呑だった丸髷事件

 当時(明治末期)は京都と大阪にそれぞれ相撲協会があって、互いに横綱もあり大関もあって本場所を興行していたのだが、東京に第五回万国博覧会というのが開かれたので、これを機会に東京で、東西合併の大相撲を興行しようという話になった。東京方は常陸山、梅ケ谷、荒岩、太刀山とそろっているし、大阪方は岩友、大木戸、放駒、綾瀬川なんというのがいた。
 
この計画は、結局は惜しいところで神田に大火事があったりして、沙汰やみになってしまったのだが、その時、私が大阪方の先乗りとして東京にやって来た。さて、東京に来たのはいいが、私は相変わらずの文なしだから、着ている着物は袷一枚、袖口なんぞところどころ切れている。が、さっそく協会に行って、

「大阪の先発で来ました。よろしくお願いします…」と、あいさつに及ぶと、昔のやつらはなかなか人が悪い。
「どうも御苦労さん、では、とりあえず旅館に御案内しましょう」
なんて、たいそういい扱いなんだが、その実、私のことはみんなちゃんと知っている。取ってくれた宿屋が、意地悪く薬研掘の立派な旅館だ。いらっしゃいと、三ッ指ついて案内してくれたのが二階だ。そこには仲居が四、五人控えている。御飯を持って来てお給仕されたんじゃ、袖口の破れた袷一枚の私には、どうにも御飯がノドに通りゃしない。しかたがないからさっそく協会へ行って、
「あんな立派な宿屋じゃ、こちとらきまりが悪くて、飯もろくろく落ち着いて食えやしませんや。もっとしょっぱい所へ泊めて下さいよ」
といって、両国の今の木内という旅館があるあの辺に、下はぶ屋という安い旅館があったので、そこへ変えてもらった。
 そこで「お風呂ヘ」と案内されて風呂場に行くと、大へんな大丸髷がはいっている。
「奥さん、ちょっといっしょにはいらしてもらってもよござんすか」
「さァ、さァ、どうぞおはいんなさい」

 当時はだいたい混浴だから、私も図々しくいい気になってはいって行った。この丸髷、まだ年の頃二十七、八の水々しいトテもいい丸髷だ。で、お湯の中で、何だかだと物語りなどしたあげく、「兄さん、お風呂がすんだら、わたしの部屋へいらっしゃいよ」
と来た。私もそういう場合、度胸はいい、これは何とか煙草銭でももらえるかなんて欲を出して、臆面もなくその部屋にすわり込んで、その晩はシコタマたいへんな御馳走になった。

 私も押しでは相当なもんだから、あくる日また何とかなると思って、そっとその部屋に行った。部屋の手前まで行って見ると、何やら話し声がする。 カラ紙の隙間からひそかにのぞいて見ると、なんと浜風という顔のきいた親方がすわって、チビリチビリやってござらっしゃる。

 つまりこの丸髷は、事もあろうに浜風親方の二号だったのだ。これアふんづかまっちゃあとが悪いと思って、ほうほうの体で逃げ出してしまった。そうこうしているうちに、例の神田の大火があったので、この相撲は無期延期となったから、やむをえず私もいったん大阪へ引き揚げて行った。

台湾行き決まる

 しばらく大阪で暮らしているうちに、いくらかは芽も出てきたのか、なにしろ協会を代表して談判の「先乗り」に上京するくらいだから、私も相当の生活ができるようになった。家だって月六十円の家賃で、土蔵のある家を借りていた。けれども、相変わらずののん気坊だから、六十円の家賃を一年間、一度だって払いはしない。家主も別に催促もしなかったが、さすがに一年経ったら、

「太郎さん、私ものん気だが、あんたもずい分のん気だね。この家にはいって一年経つが、まだ一銭も家賃を戴かない。私はそれを払って下さいとはいわないが、家の者がそれじゃやって行けないというんだ。何とか考えてくれないか」

「それは確かに一年間家賃をためた。けれども今ゼニは一文もねえ」
「それじゃ出てもらおうじゃないか」
「出るのはいつでもでるが、どこかへ家を見つけてくれ……」ということになって、公園の近所に二階家を見つけてくれた。それに敷金が百円要るというのだが、その金がない。

家主はそれを貸してやろうというのだが、その証文を前原太郎の名前にしなければだめだという。こっちもいろいろ談判して、女の名にしてくれたらそこの家を明け渡すといって、とうとう百円貸してもらった。それから、その金を持って力士、小染川の所へ行った。

関取が普請している貸家があるから「あの家を頼みます」と、さっそくそこへ移って、片手間にうどん屋の店を開いた。
 その家の近くに磐梯池という池があって、まん中に島がある。その島に池の主だというヘビがいるので、千田川、小染川という関取衆が、一週間に一ぺんずつヘビに卵を持って行ってやる。

そこで私が毎日、ヘビに自前のうどん一杯持って行くのだが、このうどん一杯五銭か六銭で、一杯売って二銭しかもうからない。関取も「太郎、いつまでこんな社会におってもしょうがない。何とかかたぎになれ」といってくれるんだが、どうにもならないでいるうちに、大阪相撲が台湾で興業することになった。
「台湾に行くのには、どうしても太郎を引っ張って行かなくちゃいけないが、太郎、行ってくれるか」
「行きましょう」
 こんなわけで、たちまち台湾に行くことに話は決まったが、実はこれがまた大失敗のはじまりとなった。

トロッコ上の大失態

 台湾では、行司重政といっしょに、台北、台中、台南、高雄へ行って、裏海岸を回る予定だった。が、まず台北をやったら手いっぱい、台中、台南と歩いたがどこもいっこうもうからない。

高雄から裏海岸にはいるのだけれど、玉之助が売り込みに行っても、言葉がわからないものだから、旅館なんか怒っちゃって、話が少しもまとまらない。そこで、私が代わりに売り込みに行くことになった。

 押尾川と私とは、まず台東へ行くことになった。小さい船で高雄を出帆したのが十二時で、いい天気だったところが、タ方になると風が出てきて船はひどく揺れ始める。押尾川はもう船底にヘパって動けない。私も船酔いでうつらうつらしているうちに、いつの間にか寝てしまったものと見えて、ひょいと眼を開けて見ると、太陽が高々と上がっている。高雄を出る時は、あすの朝六時ごろは台東へ着くということだったのに、こんなに太陽が上がっても着かないのだろうか?

「ボーイさん、台東はまだかい。おれたちは台東へ上陸するんだよ」
「この波で台東なんかへは船を着けられませんよ。この船はこのまま花蓮江へ寄って、基隆へ行
っちゃうですよ」
「そいつはたいへんだ」と、あわてているうちに、花蓮江の港外に着いてしまった。

そこで暫く待っていると、五分位波が穏かになることがある。穏やかになったなと思っていると、生蕃が舟を漕いで来るのだ。船員
「花運江へ上陸する人は早く上がらんと、船は基隆へ行っちゃうぞッ」
と怒鳴るもんだから、押尾川と二人、あわててはしけに飛び乗ってしまった。履き物も何もありゃしない、はだしである。そうしてともかく、やっと花蓮江に上陸して旅館に着いたが、押尾川は船の上で身体中のものを全部ゲロゲロにやってしまい、今やすっかりノビてしまって、お前一人で行ってくれという。しかたがない。それじゃ一人で行こうと出かけた。

 台東へ行くのには、途中から汽車に乗る所までは、生蕃の女が後ろを押して行くトロッコに乗らねばならぬ。そのトロッコに乗って、待っていると生蕃の女が押しに来た。ゴロゴロ押されて行くうちにひょいと後ろを見ると、生蕃の女はまる裸で、前の所に一尺ほどの布をブラ下げているだけなのだ。それが悪いことに、私は手に棒をもっていたのだが、後ろを向いた拍子に棒で、ひょいとその布をまくりあげてしまった。 

さァたいへん。生蕃の女はキャアキャア何か叫んで、ひどく怒ったらしく、もはやトロッコを押すのをやめてしまった。他の乗っている連中が降りて来て、

「君、何かやったのか?」
「何もクソもあるもんか、後ろを向いた拍子に、つい棒が引っかかっただけだ。別に上げる気でやったんじゃない」
「とにかくあの連中が怒っちゃって、押してくれなかったらどうにもしょうがない。君一人のためにみんなが迷惑するんだから、何とか謝んなさい」

「そりゃ悪かったけれども、謝まれったって言葉がわからないからだめだよ」
といったけれども、ハタが迷惑するからといって、とうとうバナナを買った上に十銭出して、中で片言ながら通訳のできるやつが仲にはいって、やたらに頭をペコペコ下げ、ようやく生蕃の御機嫌を直したような始未だった。

 どうかこうか、やっとの思いで台東に着いて、警察に行ってみると、組合から「イマタツ、アスアサツク」という電報が来ている。さっそく旅館へ行って「きょうはお相撲さんが着くから」と待っていたが、十時になっても十一時になっても船は来ない。その日一日とうとう来ないであくる日待ってもまだ見えない。どこへきき合わしてもわからない……。

台東でまずまずの入り

 三日目に、ようやく船がボーッと鳴っているので、あわてて海岸に行ってみると、はるか遠方を船が通るのだ。こっちの海岸では、人が大勢出てワイワイ騒いでいるのだけれども、波がひどくてどうしても台東へはいることができない。そのうち船の姿は、とうとう見えなくなって、みんながっかりした。

翌日基隆から電話がかかって来て、「船に乗ったのはいいが、波がひどくてどこへも寄らずにここに流れて来てしまった。今から台東へ陸行しようと思うのだが、相撲取りがどうしてもいうことを聞かない。

とても行けそうにないから、太郎ももどって来てくれ」という。相撲取りが来なくては話にならないから、私はそれで基隆へもどって行った。着いてみると、今は亡くなった村田さんという人が、
「太郎、これじゃしょうがないから、ここで相撲をしよう。お前、少し歩いてくれないか」
といわれるので、私は一回りすることにした。ここに益田という仕事師がいるので、その人に、
「親分、こういうわけで相撲をここでやろうと思うんですが、何とかひとつお願いします。その代わりこの相撲がうまく行けば協会にいってやって目代(木戸御免)にしますから……」

と口説いた。そこで雨がどんどん降るんだが、その中で二日間やった。けれども二日間の上がり
では宿料が払えない。親分がその宿料を払ってくれたので、
「台東じゃたいへんな人気なんだ。みんな待っているんだから大丈夫だ、行こうじゃないか」
と進めて見ると、相撲取りも行きましょうというので、

今度は間違いなく台東まで行ったのである。ここで三日ばかり興業して、見込み通り相当の実入りがあった。相撲取り連中も喜んで、台東を打ち上げてから、更に花蓮江で興行し、花蓮江から宜蘭というふうに、次々と興行して行った。

 この興行は、どうやら大して悪い入りでもなかったから、相撲取り初めわれわれも相当の収入があったのだが、これを残して持って帰ろうなんという、殊勝な心懸けの利口者は、一人だってわれわれの仲間にいるわけじゃない。

ゼニがあればありついで、片っぱしから散財してしまう連中ばかりだ。宜蘭を打ち上げて、再ぴ台北にもどって来た時には、もう十一月も末の師走に近いころだというのに、誰も彼もゼニといったら百もない有様であった。

 

五、人間裏街道、後編 六、憂さつらさ、後編