和菓子司・萬祝処 庄之助|八、太郎芸談、中編|神田

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呼出し太郎一代記、16

前原太郎

八、太郎芸談、中編

最後は私ただ一人

 何もかも失った日本に、相撲だけは生きていた。伝統を誇る相撲は、最後の最後までガン張った出羽ノ海親方、藤島親方、春日野親方、武蔵川親方等の少数の人、生き残りの少数の相撲取りと行司、そうして呼出しの私らの手によって、ついに護りおうせたのだ。

だが。いざ終戦となって、再ぴ相撲を興行する段になると、これは実に容易なことではない。力士連中が多少は残っていたとはいえ、とてもすぐには番付編成なんか覚束ない……。

 が、日が経つに従って、空襲で逃げ出したものもボッボッ帰って来るし、復員して来るものもあってどうやら一応は格好がつくようになった。そろそろ相撲をやろうじゃないかという話になって、出羽さんの総指揮、春日野さんが自身陣頭に立って、あっちの空地、こっちの広っばに縄張りして興行した。

けれども、呼出しはまだほとんど全部集まらない。もちろん遊んでいては食えないのだから、あるいはヤミ屋になったり、あるいは屋台店を出したり、あるいは田舎に引っ込んだりで、最後の一人がこの私だけだった。

 佐渡ケ嶽親万が怒ってしまって、協会の玄関に「この月の三十日までに、呼出し全部集合すべし」というはり紙を出した。その日に集まらない者は、容赦なくクビにしようという。私は佐渡ケ嶽親方(元阿久津)の前に出て、「親方、それじゃあまり薄情すぎやしませんか。

帰って来ないといったってそれア無理だ。ここへ来たって用もなし、米一粒くれてやるわけじゃない。だれだってこのセチ辛い時だもの、何とかして食わなくちゃならんから、何かしらで働いているんですよ。それをいきなり来ない者はクピだなんて、それは人情がなさすぎましょう。

しかし、相撲も興行しなくちゃならんし、それには呼出しも要ることですから、私が何とか集めましょう。まアそんなむごいことをいわないで下さいよ……」といって、私があちこち集めにかかった。
「国技館が始まるんだ。働きたいものは元通り働こうじゃないか」と、説き回ったが、

「現在のままの協会では、とても生活の安定も得られないから、われわれは働けません」
というのが大部分……もうその時分は、若い者の中には労働問題だとか、生活権の擁護だとか、自由主義がどうだとか、むずかしい理屈をいうやつも多くなって来て、
「太郎さん、今後われわれの生活の安定を保証してくれますか?」などと正面切って来やがる。

「冗談いうな。お前たちが来なければ、協会ではすぐクビにするというんだぞ。おれが生活の安定を保証するなんて、今までにそんな例があったかよ」
「それじゃもう働けない」
「そうか。働けないというやつはそれでもいい。協会に顔出してやりたいというものだけやれ。おれにも何とか考えがないわけじゃねえ。お前たちの米代だけは心配かけねえつもりだ」

というわけで、ともかく来るやつだけは来た。あしたから国技館の土俵を築こうと、わずかな人数で土俵突きの土方をやった。いよいよ二十年の秋場所の相撲が始まるのだが、呼出しは呼出しで、何とか収入を上げる工夫をしなければならぬ。そこで私は考えた。原稿を書いてもらって、これを印刷にし、われわれ仲間で売ろうという算段である。

一冊のもうけが七十銭

 これは日の丸が書いてあって、中味は相撲の四十八手を解説したもの、これをかねて知り合いの印刷所で刷ってもらおうというわけだ。印刷屋の主人公にお願いすると、「よし、それでは何とかおれの力でできるだけやってやろう」と引き受けてくれた。ところが協会も抜け目はない、これを佐渡ケ嶽が協会で売ろうと言い出した。

「親方、冗談いっちゃいけませんや。こういうものを見物衆に売るのは、昔からわれわれ呼出しの特権なんだ。これがために、私らは今日までどうやら生きて来たのですよ。私ら協会の土俵を突くんだって、協会から何ぼかもらって土方しているのじゃないですぜ。

こういうものがあればこそ働いて来たんですよ。それを協会で取り上けるということになると、ワシらは土俵突きも何も中止してしまいますよ」
「そうか、それは悪かったな。じゃまアお前に任せるからうまくやってくれ……」
と呼出しの特権は護られた。戦後初めての秋場所だったが、それでも見物はボッボッ来た。今日のような、大入りなどはもちろん見られなかったが、まだ新聞も半ペラだったし、相撲の雑誌などは見ようたって見られなかった時だから、こんなチャチなものでも、けっこう相当な売れ行きをみせた。

印刷代その他三十銭でできたのを一円で売ったのだから一部七十銭のもうけである。
そこで私は呼出し一同に”この場所に限って、これはみんなで平等にやろう”といって、これを頭割りに分け合い、その時分の米代にしたわけだ。
 二十年の秋場所から始まって、二十一年が一場所、二十二年が二場所と、相撲は徐々に復興はして来たが、何といってもまだまだ食糧難の時代でもあり、協会のお台所はもちろん、火の車どころの騒ぎじゃなかったらしい。

 けれども戦争から以来、苦しみに苦しみつつも闘い抜いた藤島親方(先代出羽ノ海)、春日野親方、間もなく九州から出て来た双葉山親方たちの、血の出るような努力は、はたの見る眼も気の毒に思うほどであった。私はしがない呼出しではあるが、相撲協会の端っくれの一員として、出羽さん、藤島さん、春日野さんの後にくっついて、今日の隆盛を見るまでに伝統の相撲を護り
抜いて来たことを、今もひそかに誇りとしている。

 さて、相撲が盛り返して来るにつれて、とても小田原からは毎日通いきれないので、何とかパラックを国技館の近所に建てようと思うのだが、私にはもとより地面がない。ブラブラしていたら、

知り会いのかみ屋という飲食店のおかみさんが、「太郎さん、何をぽんやりしてるんだい?」
「うん、パラックを建てたいと思うんだが、地面がないので弱っている。おかみさん、どこか探しておくれよ」
「そうかい。何とか探して上げよう……」
 間もなく今の家の所を探してくれた。坪いくらだと聞くと案外やすい。働いた金を少しばかり持っていたので、二千円でまず地所は買った。ところが、いよいよ家を建てるということになると、なかなか手続がむずかしくて、専門家が行っても許可をとるのに一年ぐらいかかるという。

私は考えた。これはひとつ内務省に、直談判に行ってやれと思って構わず出かけて行った。見ると記者クラブという看板が掛っている。よし、新聞社に頼むに限ると思ったからツカツカとはいって行った。五、六人が将棋を指していたが、知った顔はむろん一人もいない。

次官殿に直談判

「私は国技館の太郎というものですが、ちょっとお願いがあって来ました」
「ああ君が太郎という人か、うちの社の人に聞いて知ってるよ。頼みって何だい?」
「実はこういうわけで、バラックを建てようと思うんですが、なかなか許可が下りないということですから、私が談判しますから、内務省の一番えらい人に会わして下さいな」

「よし、そんなら会わしてやろう……」
 さっそく、いっしょに行って、鳥井さんとかいう、その当時「次官」だという偉そうな人に会わしてくれた。
「実はお役人さん、私は国技館の太郎というものですが、親子五人、空襲に遭っていま寝るところがねえ。何とかして、パラックを建てたいんですが、 何でも許可に一年もかかるということで、とてもそんなに長く待っていられません。ぜひひとつ早く許可して下さい」

「そんなこといったって、ここは係りが違うからだめだよ」
「係りが違うかどうか知りませんが、私は十一の時から相撲にはいっていて、世間のことは何にも知りません。太鼓を打つことだけしか知りません。あんた方のおっしゃることはむずかしくてわかりませんが、何とかわかるようにして下さいよ」

 次官さん、あんまり私が無茶をいうものだから、とうとう笑い出しちゃった。
「笑いごとじゃない。何とか親子五人助けると思ってやって下さいよ」
「そうか、まア待ちたまえ」
といいながら、名刺に何か書いて、
「これを持って建設局へ行きなさい。そこで頼んでごらん」

「そうですか、どうもありがとうございます」
その足で建設局へ行った。建設局では名刺を見て、本所の係りの方へまた名刺をくれた。これを持ってそこへ行くと、
「君はどこだ。材料はあるか?」
「本所のこういう所で、材料は古い汚ないのだけれどもたくさんあります」
「そうか、それじゃこれを持って、本所の区役所へ行って検査してもらいなさい。検査したら初めて許可が下りるから」
「ハイ、どうもいろいろすみません」

 本所の区役所へ行ったが、そこには代書がいない。私は書くことがニガ手だから、区役所の人に書類を書いてもらった。
「材料はどこにあるのか?」
「相撲協会に積んであります」
と案内した。協会の倉庫を開けると、焚き物が山のように積んである。

「この奥の方にありますよ。何しろ私は、雨露さえ凌げればいいんですから」といったら、
「そうか、まアそれじゃいいだろう……」
と、六日目にポンと許可のハンコをもらっちゃった。専門家でも一年もかかるというのを、私は十日かそこらでもらってしまったものだから、みんなが羨ましがること。どういう手づるか教えてくれといって、大騒ぎしたものだった。

私はバラックの建築を頼んで北海道の巡業に行ってしまったが、帰っ来て見たらバラックどころか、立派な建築だ。しかも畳まではいっている。
「おれは畳を頼んだ覚えはねえが、だれが入れてくれたんだ」
と聞いてもわからない。後で知ったことだが、畳はお客さんの弁護士さんが入れてくれたという
ことで、何とありがたいことだろうかといまだに感激している。
 この家は、両国橋のそばの昔の出羽ノ海部屋の近くだが、ここができてから、記者クラ
ブの事務所に使ってもらっているし、私もクラブの連絡に便利になった。

金庫の砂が塩代り

 相撲は復興した。今日の国技館の状況を見れば、終戦直後のテンヤワンヤだった相撲界のことがまるでウソのようだ。いちじはだれもかれも野球、野球で、栄養失調でやせてフラフラしているような相撲を、見に来ようとはしなかった。体と力がモトデの相撲に、この二つがないことには、カッパが陸へ上ったようなもので、見られたザマじゃない。

だから、食糧飢饉の東京では、本場所もそこそこにすませて、食物のある田舎へ巡業にいくのが楽しみだった。まるで食いだめに地方回りするあんばいで、入場料も米一升とか、魚だとか物の値打ちがあった時代だ。

 本場所で一番困ったのは、土俵にまく清めの塩だ。特別配給の塩だって貴重品だし、雀の涙ほどで、景気よくパッとまくほどくれりゃしない。そうかといって、二本の指先で、ちょっとつまんで、ポソポソまいたんじゃ、見物人にも見えない。塩は私たち呼出しの領分だから、なんとかしなければならない、と一晩中考えて、うまいことに気がついた。

 焼跡にポッンと残っている焼けただれ金庫--こいつの外壁と内壁の間に防火用の砂が入っている。これが塩の代用品になる。われながらうまいことに気がついたと、さっそく金庫破りの仕事にかかった。だれも文句をいう者はいない。塩が一分に金庫の砂が九分、これをまぜて土俵にパラパラッとまくと、岩塩みたいな色だが、けっこう景気よく見えたものだ。

 先代出羽ノ海さんをはじめ、苦労を重ねた三人の取締り、それに武蔵川(現出羽ノ海)さんなどワラジばきで走り回り、明治神宮の青天井の興業を、浜町の仮設国技館で興業するようになったのが二十四年一月で、一月春場所を開いたのは、十九年の春以来のことだった。蔵前に仮設国技館をつくって、やっと私たちも落着けるようになったのは、二十五年一月場所だった。

 それというのも、終戦の年の十二月、両国国技館を占領軍に接収されて、メモリアル・ホールなんて舌を噛むような名に代り、二十二年からは、あちこちで本場所を開いていたのが、蔵前にバラックだが自分の家(国技館)を持つようになったわけだ。これで相撲も立直れることができたと、ヤレヤレと胸をなでおろしたときの気持は忘れられない。

 食糧事情もよくなってきて、強い相撲取りもどんどん出てきた。東富士、千代の山、鏡里、吉葉山、栃錦、若の花、朝潮などの横綱がつぎつぎと土俵に上った。そして、相撲といえば明治のむかしから春場所(一月)夏場所(五月)の一年二回ときまっていたものが、だんだんふえ、今じゃ一年六回の本場所を開くようになった。

おまけに十日間興行が十一日、十三日、十五日とまで延びてきた。これでは川柳子のいう「一年を、二十日で暮らすよい男」のゆうめいな句も、宙に浮いてしまうけれども、とにかく一年三百六十五日のうち、四日に一日は本場所の土俵に上っている計算だというから、相撲取りには忙がしくて厄介だろうが、それだけにたくさんの日数となれば、なんとか、かんとか働くことのできるわれわれは大いにありがたい。

 それにしても、この十数年間--相撲が完全にもとのような隆盛をとりもどしはじめた二十七年ごろから、いろいろと相撲界は変った。まず、三百年間も土俵の上にあった四本柱が取り払われたことなど、もっとも大きな事件だったといえる。事件といえば、戦後の私たち呼出しにとっての大事件は、前にもちょっとふれたが、一口に人足といわれた私たちの名が番付に出たことで
ある。

番付に呼出し初出現

 記憶のよい方なら、覚えているでしょうが、呼出しの名がしばらく番付にのったことがある。

番付の左方の一番下の隅の方に〃千???植???万歳大々叶〃とならんで〃呼出し〃として太郎、卯之助など十五人ばかり、あまり粋でもない名前が小さくならんだ。
 この番付に、名前がのったのはたしか昭和二十四年夏場所だと思うが、私はここまで漕ぎつけたのは、仲間に対して最後のつとめをはたしたと、いささか自負している。

 そのころ、協会がまだ一ノ橋のたもとに、倉庫のバラックの二階にあったときだ。(今の協会診療所のある所)私は協会へ行って出羽ノ海(先代)取締に「親方、今日は太郎がほうびを頂こうと思って参りました」と頭をさげた。

「親方、古いことですが、紛擾のとき(昭和七年、天竜脱退事件)は困りましたねえ」
「うん、あのときは弱ったなア」
「あのとき、親方は、私に、太郎、協会が立ち直るまで辛棒してくれなと、おっしゃいましたね。それから戦争に負けたときも……」
 そんな苦しいさかりの話をして、とも角、協会の立ち直るまで辛棒したんだから、ほうびの意味でせめて番付の裏へでも、呼出しの名前をのっけて下さいと、お願いしたのである。
 まったく呼出しは一人前に扱われたことがない。ひどい親方衆になると〃呼出し〃とは呼んでくれず、

「おい、人足」 「こら、人足」
となる。これでは大猫なみである。それに、よく故郷の人などが〃あそこの息子は相撲協会にいるというが、番付にも出てないし、一体いるのかいないのか〃というような例もある。そういうことは、親方はよくご存知なので説明はしないが、

「とも角、私の五十年もの苦労に対するほうびの意味で、何とかお願いします」
とひたすらお願いしたのである。楯山(元幡瀬川)、武蔵川(現出羽ノ海)、秀ノ山(元笠置山)親方などもおられた。

「何しろ開闢以来ないことだからむずかしいが、来年になったら、何とかしよう」
「来年とお化けは、出たためしがないですよ」 そんな話から、結局、取締も
「一応もっともな話だ。よし善処しよう」
と引きうけて下さって、ちょうどつごうよいことに、その日の取締会議にもち出して下さった。

私が家にいると、行司の秀雄が、羽織ハカマに威儀を正してやって来て、
「この場所から、番付に乗ることにきまりました」
と協会の決定を、公式な使者として報告してくれた。ありがたくお受けした。初めての番付は十一人だけのったことを覚えている。
 
それから〃おい、人足〃などと呼ばれることはなくなった。少くとも相撲協会員の一人だという自覚のもとに、われわれも勤労意欲が、さらに湧き立つようになったことは当然である。

 しかし、それもわずかの間で、協会の改革とかで三十五年一月場所の番付から、呼出しの名は若者頭、世話人といっしょに消えてしまった。これでもとのモクアミになったが、十年ばかり番付にのった先例を作ったことは、民主主義とかいう世の中だそうだから、またいつか番付に呼出しの名がのる機会もあるものとあきらめている。

若者頭といえば、これは江戸時代から、準年寄の待遇で、雷ノ浦のように若者頭から年寄に出世した人もいた。だから若者頭だけは明治のころに番付へ出ていた。

櫓太鼓の叩き分け

 相撲の太鼓といっても種類は多い。大別すると〃寄せ太鼓〃一番太鼓〃〃二番太鼓〃〃はね太鼓〃〃町回り太鼓〃の五つがある。
 寄せ太鼓というのは、初日の前日土俵祭りの日に打つもので〃浄めの大鼓〃ともいう。土俵をきよめる意味の太鼓である。

 一番太鼓は、やぐらの上から夜あけ前に打つ太鼓で〃これから相撲が始まるぞ〃と知らせる太鼓で〃ドントコイドントコイ〃という意味でバチも外から内へ入れてゆく。
 二番太鼓は、そろそろ陽が上り、関取衆がゆっくりゆっくりと相撲場へ行く風情を、太鼓に生かしたものだ。今なら朝六時頃から十時頃まで叩く。〃関取場所入りの太鼓〃とでもいおうか。

はね太鼓は、お客さんを場外へ出やすくするように〃テンデンバラバラ〃と聞えるようも打つバチは一番とは逆に内から外へ入れる。〃散らしの太鼓〃とでもいったらいいだろう。お客さんに〃明日も来て下さい〃という意味から、千秋楽に限ってやらない。

 町回り太鼓は、普通〃触れ太鼓〃という。初日の前、東京の街々をあるくのが、この太鼓である。いまは国技館から呼出し総動員で、一つに四、五人ついて十六組が出るが、昔は、この太鼓は六柄にきまっていた。伊勢ノ海五太夫家の専売特許で、ここから損料をはらって借りて町を回ったものだ。いまはみんな協会の太鼓である。

 現在の触れ太鼓は、下町は本所から芳町方面、浅草、柳橋方面、吉原方面、うまや橋から銀座方面、それに山ノ手方面と五組にわかれて都内を一巡する本大鼓と、ほかに別動隊がいて、赤坂方面、品川方面、深川方面の三方面を回る。朝の十時に国技館をふり出しに夕方の五時から六時ごろまで、各組の触れ太鼓が、それぞれのごひいき筋を回って初日の取組みをふれ歩いてくる。
昔はこの本太鼓五個のうち一個を櫓に上げて、初日から千秋楽まで、一番大鼓からはね太鼓と、パチさばきも鮮やかに打ち分けたものだが、今は、櫓専用のものを上げて使っている。

 

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